家紋入りネクタイ・家紋入りシール
家紋入りネクタイ家紋入りネクタイ使用例
 家紋は、日本の文化遺産として現在に至っているが、決して忘れ去られた遺産ではない。

現在においても、工芸、調度品からアクセサリー、小物類に至るまで幅広く現在社会に溶け込んで脈々と息づいている。

ちょっと気を付けてみると街中にもまた、生活習慣のなかにも実に多くの場所で家紋があるれている。

さしずめ冠婚葬祭などは家紋のオンパレードといったところでしょう
ご先祖より受け継がれた家紋は子孫繁栄の証です

家紋が呼んでいる


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● 藤紋の一例(日本十大家紋) 

十大家紋、藤紋の一例

 全国的な分布からいって、天下第一の家紋、特に日本の大姓「佐藤氏」をはじめとする伊藤、武藤、近藤、など藤原秀郷流の”藤原一門に多い。古来、藤は藤原氏の代表紋とされている。


藤原氏は天皇家の後宮に多くの娘たちを送り込み、生まれた皇子にまた藤原氏の娘を配するという形で、天皇家と血縁を結びながら、およそ千三百年以上にわたって栄えてきたのだが、そういう生き方を見れば、「藤」ほど藤原氏の紋章にふさわしい文様はないといえる

藤は太い幹にからみつきながら繁茂する。
それは天皇家という幹にからみついて繁栄してきた藤原氏の生き方そのものだった。



藤紋のパターンは藤の花と枝からなっている。
ほとんどが丸くデザインされているので「藤丸」と呼ぶが、写実的な文様や菱形、桐形、杏葉形にデフォルメされたものもある。

花房の数も一つ花房から八つ花房まであり、見事なバリエーションをみいせている。
なお花房が垂れ下がっているうものを「下がり藤」上がっているものを「上がり藤」と呼ばれている。藤紋の大部分は「下がり藤」と「藤丸」だ。藤は元来垂れ下がる植物だから「下がり藤」が自然な形だが、それをあえて「上がり藤」にしたのは、向上発展っを願ってのものであろう。


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 ● 片喰紋の一例(日本十大家紋)

十大家紋、片喰紋の一例


片喰は道端や田の畦などに生えるありふれた雑草だが、可憐な小さな花が咲く、片葉が三つあるので「片葉三」と名付けられたという。


使用家数の上では、日本の十大家紋のうち堂々第二位を占めている。
その理由として考えられるのは、まず第一にその形の美しさだ、単純化された三つの弁は、もうこれ以上単純化できない極限の美しさを表している。

第二に、日常的に見られる親しい雑草で、牡丹のように近づき難い感じがない。
いわば庶民の草花ということで愛されたのかもしれない。


その形が単純明解ですわりがよく、しかも繁殖力が旺盛なので子孫繁栄の祈りをこめ、多くの家で使われるようになった。

現在でも藤、木瓜に次ぐ人気をもつポピュラーな家紋である。
家紋のパターンとしては、正面から見たままの三葉と葉脈を写実的に描き、中心部に葉脈を鋭く剣先で切り込んだ形が基本となっている。
三葉と葉脈の関係に変化を出したもの、葉の間に剣や蔓を加えたものや、葉の数によっていろいろなバリエーションがある


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● 木瓜紋の一例(日本十大家紋) 

十大家紋、木瓜紋の一例


デザイン的な美しさから見て、世界にも類例のないほど精錬された造形美だといってよい。
モチーフはもちろん花そのもの、優雅な花のイメージを唐様に描いた唐花菱を中心に据えそれを環状の丸ワクで囲み、さらに太い外ワクでしっかりと包む。

それぞれの曲線美が、楕円を基本とする全体のプロポーションによく調和し均整のとれた華塵さを冷静に定着させている。
ところが、この文様がなにから起こっているのかは、実はよく分からないのだ。
という説、それに「木」がついた胡瓜だという説もある。


分厚い環状の外枠は花弁のようだが、三葉から八葉まである。
内枠は細く、中央部を包んでいる。

中央部は唐草になっているが、ときに桐・四つ目・蔦・蝶などに変えてあるものもみられる。

やや平べったいものを「横木瓜」縦に細長いものを「縦木瓜」と称する、屋根がついているものを「庵木瓜」三つ重ねたものを「三盛り木瓜」と呼ぶなど、形の変化によってさまざま呼称が違う。


戦国武将では越前の朝倉氏が早くから使用しているが、これは朝倉太郎が白い猪を退治したときに源頼朝から賜ったものという。
のちに織田信長が使用して「織田瓜」とよばれた。


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● 蔦紋の一例(日本十大家紋) 

十大家紋、蔦紋の一例

『万葉集』に「さ寝し夜は、いくだもあらず、這う蔦の、別れし来れば。。。。。。」という柿本人麻呂の長歌があり、蔦の名は地面を這いつたわって伸びることから起った、さらに美しく紅葉すると楓に似ているので別名をツタカエデ、あるいは地錦などともいう。


平安時代から貴族の衣服の文様に使われたことが『源氏物語』や『枕草子』『栄華物語』などの文様によく出てくるのもその美しさが愛好されたためだろう。
しかし、ふしぎなことに、これを家紋にした公家は見当たらない。


家紋としいては室町時代のお「見聞諸家紋」に椎名、富田、高安の三氏が出ているのが初見のようだが、それ以前から使用されていただろうことは容易に想像できる。


江戸時代の蔦紋使用大名としては藤堂、松平、六郷の三氏が著明だが、旗本では百六十氏にのぼる。
松平諸氏は徳川の一門に連なるので初めは葵紋を使用していたが、後の将軍家に遠慮して蔦紋に替えている。
江戸時代には、上は将軍から下は花柳界の女性にいたるまでに大いに愛好された。


八代将軍徳川吉宗は将軍家としての自分の血筋が途絶えるのを心配して一橋、田安、清水の御三卿を立て、徳川家の本紋の葵の替え紋として蔦紋を用いた。

これなど蔦の生命力の強さにあやかり、子孫の繁栄を願ったものに違いない。
一方、花柳界の女性に愛されたのは、客に蔦のようにからみついて離さないという縁起をかついでのことであろうか?

蔦紋のバリエーションは約百種もある。ほとんどが葉をデザインしている。
一葉から五葉まであるが、最も親しまれているのは、五葉の単純な形だ。
葉に切り込みを入れているのを鬼蔦という。
花を中心にした「花蔦」蔓を付した「蔓蔦」大きくデフォルメした「光琳蔦」や「利休蔦」それに「三つ盛蔦」「尻合わせ蔦」「頭合わせ蔦」なども見られる。

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● 鷹の羽紋の一例(日本十大家紋) 

十大家紋、鷹の羽紋の一例

大空を悠々と飛翔する鷹を見て、古代人は空の王者の感を抱いたに違いない。宮廷の元旦の節会、即位式などで左右近衛の両陣に鷹の旗をたてるのは、権威の象徴としてであった。

本来「たか」という言葉には「高い」「猛々しい」「強い」といった意味がある。

鷹は他の鳥獣を襲って食らう猛禽である。その鷹を飼いならして狩猟に利用する鷹狩りは、古くから武人ばかりでなく公家たちの憧れの技芸となった。

そして鷹の羽は矢羽として最高の品とされた、そんな鷹が勇猛を身上とする武家に好まれないわけがない。


しかし、鷹の紋は羽だけを扱ったものが圧倒的に多い。
武家の紋章にふさわしい鷹の羽紋は、江戸時代に大名の家紋として盛んにも用いられた。

広島藩主の浅野家の「芸州鷹の羽」は羽に渦巻があり、福山藩主の阿部氏や河内丹南藩主の高木氏の鷹の羽には斑点がつけられている。


その他、旗本まで含めると使用家は百二十三家に及ぶ。
赤穂事件で名高い浅野内匠頭の家紋の鷹の羽紋だが、赤穂浅野氏は広島浅野氏の分家だから当然である。
しかし本家と同じものは用いず本家の「渦巻き」に対して赤穂浅野氏は「斑入り鷹の羽」にしている。
鷹の羽紋は形もバラエティに富んでいて、およそ六十種ある。


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● 柏紋の一例(日本十大家紋) 

十大家紋、柏紋の一例

 古代には堅い木の葉の大きなものを選んで食べ物を盛った。
『万葉集』に「家にあれば笥に盛る飯を草枕、旅にしあれば椎の葉に盛る」とあるが、椎ほ葉も「堅し葉」なのだ。
しかし、もっとも利用されたのが、柏の葉だった。


柏の字は槲とも書く、適当に大きく肉圧でしなやかだ。
そこで柏が食器専用の葉となっていった。


家紋としての使用家は、神宮では三重県の伊勢神宮の久志本氏、愛知県の熱海新宮の千秋氏、岡山県吉備津宮の大森氏、福岡県宗像神社の宗像氏などがある。


公家では神道で朝廷に仕えたト部氏とその後裔の吉田、藤井、萩原、錦織の四家が使用。
柏紋は普通は葉を文様化してるが、中には実や枝をつけたものもある。


葉の数は一葉から九葉まであり、形は「対い柏」「抱き柏」「違い柏」などがある。
しかし、最も多いのは「三つ柏」と「抱き柏」だ。
これに蔓が生えているのを「蔓柏」という。
「三つ柏」は七福神の恵比須さまが、この紋を用いている。


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● 桐紋の一例(日本十大家紋) 

十大家紋、桐紋の一例

桐は中国では聖なる木とされている。
鳳凰が桐の樹上で鳴くの聖王の出現する瑞兆とされているからだ。
想像上の霊鳥である鳳凰は竹の実しか食べない。
ここから桐と竹と鳳凰が聖天子を象徴するようになったのである。


元弘の乱で打倒鎌倉幕府の戦功をあげた足利高氏は後醍醐天皇から御名尊治の「尊」の字賜って尊氏と名を改めたが、そのとき、桐紋の使用もゆるされたという。


秀吉は絢爛豪放な桃山文化を花咲かせたが、その権力を誇示するため、建築や工芸、美術品にやたらに「太閤桐」と呼ばれる桐紋を据えた。


秀吉の築いた姫路、伏見、大阪城には瓦に桐紋があるし、優れた寺院建築に京都醍醐寺、豊国神社の唐門、高台寺、西本願寺の金具などがある。
とくに秀吉夫人の北政所ゆかりの高台寺は膳椀や食器類にいたるまで見事な桐紋がみられる。


桐紋は花の数で分類し、中の花茎に五花、両脇の花茎に三花あるものを「五三の桐」といい、中央に七花、両脇に五花あるものを「五七の桐」という。
その他「五四の桐」「九七の桐」「七五三の桐」などもある。
これをさらに千変万化にデフォルメされて、種類は無数にある。


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● 茗荷紋の一例(日本十大家紋) 

十大家紋、茗荷紋の一例

 茗荷は湿地に自生するが、多くは栽培されている。

食用にするのは大小六、七片の苞をつけた竹の子形のもので、茗荷竹あるいは茗荷の子などと呼ばれ、生姜に似てその香味が珍重される。


茗荷紋を分類すると、一個のものを「一つ茗荷」といい、二個のものを「二つ茗荷」というが、これには「対い茗荷」と「抱き茗荷」がある。
三個のものには「三つ盛り茗荷」「三つ寄せ茗荷」「三つ追い茗荷」「茗荷巴」などがある。


使用家は藤原氏系統に極めて多く、道隆流の大沢氏、道長流の中村氏、頼宗流の大沢氏、山陰流の増田氏、利仁流の堀氏、、秀郷流の鍋島、野間、明楽、松村などの諸氏のほか、支流で十九氏がある。
清和源氏では義家流の小沢氏ほか九氏、宇多源氏系では佐々木氏ほか五氏がある。


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● 沢潟紋の一例(日本十大家紋) 

十大家紋、沢潟紋の一例

 沢瀉は池や沢に自生する慈姑と同族の多年草である。
根のきわから伸びる矢尻状の葉が盛り上がっているので「面高」の名があるといい、あるいは「沢の潟れ」に生える草だから「沢瀉」と書くのだともいう。


古くは勝ち草とか将軍草などとも呼ばれ、縁起の良い草だった。
「おもだかや弓矢立てたる水の花」という句があるが、沢瀉が群生している状態を見ると、まるで弓矢を立て並べたように見える。


尚武の紋にふさわしい。武将が沢瀉威しの鎧を着用したり、沢瀉を戦勝の印しにしたのはそのためだ。
「平家物語」に熊谷次郎直実が沢瀉の文様を刷った直垂れを着ていたことがでているし、「源平盛衰記」にも「沢瀉威しの鎧に連戦葦毛の馬に乗った越前三位通盛」といった戦装が見られる。


沢瀉が家紋に採り入れられたのは、そうした武士の戦陣における縁起からきている。
あるいは沢瀉の葉が楯ににていて、防御のまじないになると考えたからかもしれない。
沢瀉紋には葉だけ用いるものと、葉と花を組み合わせたものとがある。

沢瀉紋には葉の数によって「一つ沢瀉」から「九つ沢瀉」まであり、水を添えたものを「水沢瀉」という、ほかに「抱き沢瀉」「対い沢瀉」などがある。


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 橘紋の一例(日本十大家紋) 

十大家紋、橘紋の一例

 橘は古代名で、現在の「カラタチ」の花のこと。カラタチは「唐のタチバナ」に由来する常緑低木。
五月ごろ、白いちいさな五弁花が咲く。
奈良時代には好んで庭に植えられ、京都御所の紫辰殿には「左近の桜」とともに「右近の橘」として残されている


橘は、もちろん橘氏一族の家紋。
奈良朝のころ元明天皇はことのほか橘を好まれお気に入りの女官 ”三千代”に橘の呼び名をあたえた。
その三千代の子が橘諸兄で母の愛称を記念して橘姓をたてた。
 
橘氏が次第に衰えて、公家から姿を消すにおよんで、武家の間で、伊井、黒田などが橘紋を用いた。
日蓮宗が井筒に橘の紋を用いるのは、日蓮と伊井家との間に姓氏的な関係があったからとされる。
家紋の種類としては六十種で、果実一個に五枚葉を配した形が基本形。


橘紋の多くは一本五葉の立ち木で、中央に一つの実を置いている。
しかし三つ橘から五つ橘まであり、配置によって「向こう橘」「違い橘」「花橘」「三つ盛り橘」「尻合わせ橘」などと呼んでいる。
紋所としいては比較的、絵画的で形もいいので染織意匠の単位模様としてもしばしばもちいられている


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